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くしゃん。

古登が可愛らしいくしゃみをひとつしたおかげで、
時間は動き始めた。
彼は慌ててごめん、と言い、すぐに風呂を沸かすと放るように言いながら席を立った。
お風呂に入るべきなのは、あたしじゃなくてあなたじゃない…?
そう心の中で呟きながら、彼女はとりあえずベットの上の濡れていない場所にのそのそ避難した。

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正直なところ、今のこの現状がよくわからない。
まるで現実味が感じられず、
先程脳裏に焼かれた映像は夢だったのではないか、とまで思った。
だが、あのひとが誰だかわからない。
少なくとも、今まで出会った記憶はない。どうやら介抱してくれていたようだが、なぜ?
なぜ、介抱なんてされていたの?

…やっぱり、夢ではないのだろうか。

杭で伐たれたような心臓の痛み。
二度目の心の崩壊は起きないようだ。なんだかとても身体がだるい。
深く、長いため息をついた。
…わからない。
伏していた瞼をふと持ち上げると、視界の端にあの鮮やかな色が映った。
彼だ。

「…身体は、平気?」

濡れた布をするりと解くと、感じた印象より少し幼くなった。
ゆっくりと、優しく問い掛けた彼を、思わず見つめてしまった。
自分より割と年上のようだ。20前後、といったところだろうか。
濡れた黒髪はますますその色を深くする。…きれいだ。

じいっと見ていると、彼の目がだんだん落ち着きなく泳いでいった。
終いには鼻から上が赤く火照り、下を向いてしまった。そして、なにかな、と小さな声で質問した。

「ううん……きれいな色だなと思って」
「え?」
「髪。黒い髪は、…初めて見た」

すると、彼の目が少し、陰りを見せた。すこしだけ、…悲しそうに。
え、と思った瞬間には彼は目を細め、照れたようにありがとう、と呟いた。
…気のせいだったのかもしれない。

「冷えるよね。…まだお湯が溜まりきってないかもしれないけど、行っておいで」
「え、あ、うん…ありがとう…」
「そこを出て、右。ドアを開けて入って左がお風呂で、脱衣所だから。」

そう言いながら、彼は厚手の大きなタオルを手渡してきた。
淡い色の、きれいなタオルだった。
古登はタオルを見つめて、ベットから降りて裸足で立った。
それから、見上げた。

「……」
「ん?…どうしたの?」
「…あなたの…名前を聞いてもいい?」

不思議と、もう怖くはなかった。
彼は一回だけ目を瞬きして、ふわりと笑った。



「一覇。…いちはだよ。」


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