…いちは
と、古登は湯舟に顎の上まで浸かりながら呟いた。
ぷくりと水泡が立つ。温かい。冷えていた身体が温もりを思い出したようだ。
あちこち砂だらけだった自分を洗って、まだうまく洗えない髪を一生懸命流した。
今日はうまく洗えた気がする。
変わった名前だな、と思った。
だが響きが気に入って、小さくもう一度、彼の名を呟いた。
なんとなく笑みが込み上げて、彼女はちゃぽんと水音を立てた。
ちょっと長風呂しすぎたかな、と思いつつ、
彼女は出してあった彼のものと思われる服を着た。
腕を通すのにも一苦労だ。大きい。
彼にとっては膝上だろうが、彼女が穿けば臑を通り越す。
おとこのひと、なんだなあ
少し恥ずかしくなったが、濡れた髪をわさわさと拭きながら、脱衣所を出た。
「…あの。出ました……----!?」
怖ず怖ずと先程の部屋を覗き込んだ時。
彼…一覇と名乗った青年が。
床にうずくまり震えていた。
「お兄さん?!どうしたの……ッ!」
「---」
彼は血を吐いていた。
激しく咳込む。身体は地震の中にでもいるかのように激しく揺れ、
また動悸がこちらまで痛む程に見える。
古登は躊躇ったが、彼の傍に座り込み背中を摩った。
彼の顔は掌に覆われていて見えない。
だが苦しいのだ。苦しんでいるのは確かなのだ。
古登はその悲痛な肺音に脅されているかのように真っ青になっているが、
それでも彼から離れなかった。
「お兄さん…お兄さん…ねえ、ねえ…だ、だいじょ…う…っ…う…おにいさ…ん…」
「---は…ぁ……う……」
涙が出て。頬を伝い落ちるのにも構わず、
古登は何がなんだか分からないまま縋った。
すると、彼は一瞬だけ古登を見た。
苦しい眼差しだったが、次の呼吸からだんだんとその震えは落ち着いていった。
古登は目を離さなかった。離してはいけないと、思った。
沈黙が落ちて、落ちたあと。
長いように感じる時間が過ぎた頃、彼の震えはゆっくりと治まった。
そして、口の端に残った赤い線を手の甲で拭い、座り直して、弱く…微笑んだ。
「ごめん、……ありがとう……びっくり、した…?」
「……ぅ…ぅ…っえ……う--」
緊張の糸がぷつりと切れたのか。
古登は静かに泣き出した。
声を押し殺して、…苦しそうに、泣いた。
まだ白い顔をしている一覇は、
鳴咽する少女を、…-躊躇いがちに--抱きしめた。
「--ごめんね、ごめんね。…もう大丈夫。大丈夫…平気だよ。
大丈夫だから、……怖がらないで……」
「ぅ ぅ…ひ…ぅ…うえ…うー…」
「泣かないで、……ごめんね…ごめんね……」
「ひぅ…っく…う…」
ゆっくり、大きな掌で、頭を撫でながら、彼は絶えず繰り返した。
古登は自分にまだ、流す涙が残っていたことに少し、驚きながらも。
それはとまらなかった。
彼自身が泣きそうになりながら。
ひどく後悔したように、…悲しそうに。
やさしい言葉を掛け続けた。
…次第に古登の泣き声が小さくなり、静かになった。
そのまま、動かない。
…一覇はだんだん背中に妙な汗をかきだした。
動かない。腕の中の古登が、………動かない。
一覇自身も落ち着きを取り戻したが、どうにもどう次を動いたらいいか分からず、
ただ繰り返し彼女の髪を撫でていた。
我に返ったように、
彼は自分はとんでもないことをやらかしているのではないか、とだらだらと汗を流す。
どうしよう…と心の中で呟いてから、彼はこっそり古登の顔を覗き込んだ。
すると、
…泣き疲れたのか。
目元を赤くしたまま、古登は小さく寝息を立てていた。
その瞬間、彼はふっと笑みを零し、安堵した。
…ちいさな、女の子。
「…髪濡れたままだと、…風邪、ひくよ…?」
「…んに…」
「……んにって…」
一覇はもう一度ふ、と息を吐いてから、小さな古登を抱き上げてベッドに連れて行った。
風邪ひいても知らないよ、と、優しく呟いてから。
深く寝息を立て始める古登を見下ろしてから、彼は少し離れて、背を向けた。
そして、ぎゅうと心臓のあたりを掴んでぼそりと呟いた。
「…どうか、……もう少しだけ---」
口の端からは、また、赤い筋が流れた。
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