…いちは
と、古登は湯舟に顎の上まで浸かりながら呟いた。
ぷくりと水泡が立つ。温かい。冷えていた身体が温もりを思い出したようだ。
あちこち砂だらけだった自分を洗って、まだうまく洗えない髪を一生懸命流した。
今日はうまく洗えた気がする。
変わった名前だな、と思った。
だが響きが気に入って、小さくもう一度、彼の名を呟いた。
なんとなく笑みが込み上げて、彼女はちゃぽんと水音を立てた。
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くしゃん。
古登が可愛らしいくしゃみをひとつしたおかげで、
時間は動き始めた。
彼は慌ててごめん、と言い、すぐに風呂を沸かすと放るように言いながら席を立った。
お風呂に入るべきなのは、あたしじゃなくてあなたじゃない…?
そう心の中で呟きながら、彼女はとりあえずベットの上の濡れていない場所にのそのそ避難した。
古登が可愛らしいくしゃみをひとつしたおかげで、
時間は動き始めた。
彼は慌ててごめん、と言い、すぐに風呂を沸かすと放るように言いながら席を立った。
お風呂に入るべきなのは、あたしじゃなくてあなたじゃない…?
そう心の中で呟きながら、彼女はとりあえずベットの上の濡れていない場所にのそのそ避難した。
目が、醒めた。
不意に、考え事をしていてとんと肩を叩かれたような。
そんな一瞬の間だったかのように、彼女は目覚めた。
瞬きを数回して、寝かされていた古くきしむベットからゆっくり身を起こした。
知らない天井、知らない部屋の中。こざっぱりとした何もない白い室内、生活感があまり感じられない寂しさ。
ベットに備えつけられた白い小さな側机には、水差しと小さなカップ。
ここはどこ?と考えるより先に、
古登はそのベットにもたれ掛かるようにして寝息を立てる人物に目を留めた。
この位置では後ろ頭しか見えないが、古登の知る限りでは見たことのない深い黒髪だった。
少なくとも古登の生まれ育った集落では、バンダナに似た形状の布を頭に巻き付けるような風習もなかったと思う。
それの鮮やかな彩色は目新しかった。
だから、異国のひとなんだろうかと思った。
だあれ?
…そこまで考えてから、古登の脳裏にあの光景が蘇った。
---集落は。
砂地
---みんなは。
泣き声
「………!!!」
押し寄せる絶望に、古登の感情は塗り潰された。
両の掌で頭を抱え、溢れ出る漆黒の波に心臓がキリキリと音を立てた。
「……ッぅ あ あ ぁああ やあぁ……!!!」
古登の悲痛な声音に、黒髪の男は弾かれたように目を開き立ち上がった。
眉間に僅かに皺を寄せ、だが包むように震える古登の小さな両肩を掴んだ。
「…っ落ち着け!大丈夫、大丈夫…っだから!!」
「ああぁ」
「頼む、泣くな!頼むから、そんなに泣くな…!!」
泣き叫ぶ古登に負けないくらい悲痛に請う青年。
次の瞬間、彼は側机にある水差しを乱暴に手に取り、自らの頭にその水をぶちまけた。
ばしゃあ!!
……………。
…盛大に音を立て、少なくない量の水が彼の全身を濡らした。
何が起きたのか、目の前にいるひとは一体何をしたのか。
古登はその音と水しぶきに瞬間、泣くのを忘れてぽかんとした。
ぼたぼたと水色を滴らせ、ずぶ濡れの彼はくしゃりと笑ってこう言った。
「…びっくり、したか?…よかった。ごめんな」
古登の大きな瞳に一粒ずつ残っていた涙が、瞬きと一緒にすうと流れ落ちた。
泣くのを忘れ、彼女は眼前の彼を初めて正面からまっすぐ見つめた。
微かに震えた、その濡れた手を。
髪の色より蒼に近い眼を細めながら、古登のその透ける碧色の頭に優しく置いた。
泣いてるみたいに、微笑うひと。
古登はそう思った。
不意に、考え事をしていてとんと肩を叩かれたような。
そんな一瞬の間だったかのように、彼女は目覚めた。
瞬きを数回して、寝かされていた古くきしむベットからゆっくり身を起こした。
知らない天井、知らない部屋の中。こざっぱりとした何もない白い室内、生活感があまり感じられない寂しさ。
ベットに備えつけられた白い小さな側机には、水差しと小さなカップ。
ここはどこ?と考えるより先に、
古登はそのベットにもたれ掛かるようにして寝息を立てる人物に目を留めた。
この位置では後ろ頭しか見えないが、古登の知る限りでは見たことのない深い黒髪だった。
少なくとも古登の生まれ育った集落では、バンダナに似た形状の布を頭に巻き付けるような風習もなかったと思う。
それの鮮やかな彩色は目新しかった。
だから、異国のひとなんだろうかと思った。
だあれ?
…そこまで考えてから、古登の脳裏にあの光景が蘇った。
---集落は。
砂地
---みんなは。
泣き声
「………!!!」
押し寄せる絶望に、古登の感情は塗り潰された。
両の掌で頭を抱え、溢れ出る漆黒の波に心臓がキリキリと音を立てた。
「……ッぅ あ あ ぁああ やあぁ……!!!」
古登の悲痛な声音に、黒髪の男は弾かれたように目を開き立ち上がった。
眉間に僅かに皺を寄せ、だが包むように震える古登の小さな両肩を掴んだ。
「…っ落ち着け!大丈夫、大丈夫…っだから!!」
「ああぁ」
「頼む、泣くな!頼むから、そんなに泣くな…!!」
泣き叫ぶ古登に負けないくらい悲痛に請う青年。
次の瞬間、彼は側机にある水差しを乱暴に手に取り、自らの頭にその水をぶちまけた。
ばしゃあ!!
……………。
…盛大に音を立て、少なくない量の水が彼の全身を濡らした。
何が起きたのか、目の前にいるひとは一体何をしたのか。
古登はその音と水しぶきに瞬間、泣くのを忘れてぽかんとした。
ぼたぼたと水色を滴らせ、ずぶ濡れの彼はくしゃりと笑ってこう言った。
「…びっくり、したか?…よかった。ごめんな」
古登の大きな瞳に一粒ずつ残っていた涙が、瞬きと一緒にすうと流れ落ちた。
泣くのを忘れ、彼女は眼前の彼を初めて正面からまっすぐ見つめた。
微かに震えた、その濡れた手を。
髪の色より蒼に近い眼を細めながら、古登のその透ける碧色の頭に優しく置いた。
泣いてるみたいに、微笑うひと。
古登はそう思った。
少女は我に返った瞬間、何もない砂塵の丘に独りで立っていた。
小さな身体を纏うのは擦り切れ薄汚れた厚い布ばかり。
白い素足は砂に塗れて寒さに震え、消えかけた夕暮れの朱が僅かに彼女を温めるのみだった。
あたしは、どうして、こんなところにいるんだっけ…?
煤がついた幼い頬は、冷たい風にさらされほのかに赤みを帯びていた。
ゆっくりと記憶を辿る。この丘には見覚えがない。けれど…
この丘には懐かしい家があったはず。
その瞬間、少女は自分の名を呼んだ最後の声を思い出した。
--ト、逃げなさい--!!!
大きな瞳が驚愕の色を持ち不自然なほどに見開いた。
硝子が割れるように、記憶の破片が音を立てて心臓を突き刺した。
「…あ…っあ…っ……!!!」
少女は震えた。
そして疼くまって吠えた。
「ぁさ…ッ ……ッあぁ…ッ……あぁッ……!!!!!!」
喉が枯れて夜が明けて。
彼女は意識を失い倒れるまで、泣いた。
今から9年昔、世界地図からひとつの集落がぽかりと消えた。
焼け跡から見つかったのは、僅かな灰とちいさな少女のみ。
その少女さえ、国家の調査では確認されなかった。
人々がその事態に気付きやってきた時には、
少女は黒髪の男に拾われ、意識の無いまま遠い異国の地に連れていかれていた。
衰弱しきった少女は、意識が戻らず飲食も叶わなかった。
男は少女が目を覚ますことを待ち、傍らを離れようとはしなかった。
彼の願いは届かぬまま、少女は最後に涙を一筋流し、息を引き取った。
死なせは、--しない---
男はそう呟くと。
ぐるぐると巻かれた布に包まれた左腕をがしゃりと重そうに持ち上げ、
指先で虚空に陣を描いた。